私の3.11
東日本大震災から11年目の今日、テレビでは追悼の番組が流れています。岩手、宮城、福島各県の多くの方達の記憶、祈り、涙、命の復活、、、、。 それぞれに思い出が甦ってくる一日です。
私は当時、水沢の産業技術短大校に副校長として勤務していました。校長は矢巾本校にいて月に二度ほどいらっしゃるので、日々は実質の責任者でした。あの夜、自家発電の短大校に近くの下宿していた学生4人程が来ました、事務局長とインスタントラーメンを作って食べさせ、学生さん達に出身地を聴いていました。一人、陸前高田からの学生がいて、大丈夫なのかと話をした記憶があります。数日後に両親は津波で亡くなっていました。彼の家は高田松原の近くでした。
短大水沢校では他に、大槌からの学生も母と祖父母を亡くしました。吉里吉里の吉祥寺での四十九日合同法要にお悔やみに行った時、何百人もの人が集まるなか、ご住職でしょうか、泣きながらの読経でした。また、3.11は金曜日で、翌週火曜日は卒業式でした。信号の止まった四号線をフルスピードで盛岡に向かい、校長との協議、IBC放送局に卒業式挙行をラジオで流すことの依頼。そして、月曜朝に卒業式やるのは辛いと詰め寄ってきた数人の学生。涙ながらに抗議する顔は今でも鮮やかに甦ってきます。
直訳すると”平和の使者”となる「Ⅿensajero de la paz」を耳にしたくなりました。 以前、グループayopayamantaの曲を聴いていたら偶然わかった曲です。
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